2011年7月7日木曜日

喪失感と戦い、日本病から脱却する方法

今、多くの日本人が喪失感で希望を失いかけている。

国というものが、国民を守るという幻想が見事に打ち砕かれた国民は、今、とても深い喪失感に襲われている。これを、日本病からの脱却過程と名づけたい。

誰もが、朝鮮半島の北側の国を独裁国家と思い、かの国の人民をかわいそうだと思っていたが、今や我々の国日本がかの国よりも酷い国家であることに、気づき、大きなショックを受けている。

本来国家とは、一握りの権力に左右される存在だが、そういう面をオブラートにくるむことで、国家というものを維持してきた。権力者は常に民の生活を思い、国民が豊かに暮らせる国をつくることを全面に押しだして、国家を経営してきたのです。そうやって、国を発展させ、権力を維持してきたものでした。しかし、今やこの国の権力者は本音をオブラートにくるむこともできないほどに疲弊してしまったようです。

今や権力がなりふり構わず、権力者の意向だけを振りまわし、国民のことは虫けらのようにしか考えていないことを、誰の目にも明らかになるほど正直に表現してしまったのです。ですから、この国で生活をしている人々のショックはただ事ではない。

国民は精神の健康を保つために、国家の権力者を倒すか、国家と決別することを考えざるおえないように状況に追い込まれているようです。しかし、それさえもできない非力な国民は、ただひたすら大きな喪失感に陥っているのです。

生きる土地を失ったのは、福島県人だけではないのです。日本人が皆、国を失ったと感じているのです。一億の人間が、難民となって、今後どうやって生きていけばよいのかと模索しているのです。中には、心の健康を維持するために、生粋のコスモポリタンになる覚悟をする者も多い様です。

中国では国を信用していないのは当たり前、国を信用していることが信じられないこととのようですから、彼らから見れば、やっと気づいたのかという程度のことでしょう。ある意味で、これで、やっと普通のこの地上で生活するいっぱしの人間の仲間入りをして、国際社会の常識が通用する人間になったのかもしれません。

だからといって、「これを肯定してよいことではない」と考えるのが伝統的な日本人の価値感でした。それが、ここで言うところの日本人病です。今喪失感という病気になったのではなく、これまでが病気で、やっと病気であることに気づいて、正常な状態に戻ろうとしているのです。

しかし、そういう社会になるということは、これまでの価値感を大きく変えなければなりません。信用という言葉は禁句であり、これまでの感覚からすれば、「おぞましい国」が誕生するのでしょう。

とても精神の健康に良くない話でしょうが、これからはそのような中で、健康な生活をする方法を考えなくてはいけないのです。国際標準の市民として、自立をしなければいけないのです。とりもなおさず、そのためには理不尽な中でも、自分の生活と家族の生活を守り、健康な生活を維持していかなくてはならないのです。

我々は、病気から速く回復するしかないのです。喪失感、絶望感に長く留まってはいけません。前向きにこれまでの日本という国を捨て、新たな生活を構築しなければなりません。目前にあるのは、これまで当たりまえであった、綺麗な空気や安全な水、食の安全性や職の確保まで、これまで当たり前だと思っていたものが、すべて当たり前ではない状況になったと言うことです。

ぼけぼけしては居られないのです。


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