では、健康の中でも特に重要な要素は何でしょうか。心と体にわければ、どちらも重要である事に変わりはありませんが、優先されるのは心の健康です。ここでは、心の健康を維持するために所属していた社会から離脱し、社会的に死ぬことの可能性を考えてみます。ある意味では逃避かも知れませんが、積極的な開拓と考える事もできます。
人間の死には4段階あると言われます。
アルフォンス・デーケン教授による人間の死の4段階
- 第一段階:心理的な死
- 第二段階:社会的な死
- 第三段階:文化的な死
- 第四段階:肉体的な死
それぞれの定義を詳細に検討して行ったら色々と定義の問題は発生しそうです。ここでは、社会死のみ少し定義を追跡してみます。
「社会死」という言葉の定義は、所属する社会から「死」を宣告された状態です。病院で死を宣告されたり、社会から見捨てられた人も社会的死の状況ですから、昔の「姥捨」等は典型的な社会死になるのでしょうな。家族から見放された老人は、時間の問題で死に至るため、社会死していると見なすようです。社会から排除された人はどうでしょうか?群れ社会のなかで、群れから追い出された雄や、自ら離れ新天地を築こうとした雄のような立場です。人間社会でも失敗して「あいつは終わった」と言われても、社会的死かというと、おそらく生きていることになると思います。
実際に世の中には社会死から蘇った人は沢山います。第二次世界大戦では、間違って戦死を宣告された人、横井さんのように戦争が終わっても「戦闘を継続し、敵から何十年も隠れ続けた人」もおられます。それらの例では、肉体的に行きていても、その人が所属していた社会からは死を宣告されています。この事例は社会的死はその所属する社会から死を宣告されたに過ぎず、人間の死を意味していないということです。
それでは、自ら社会に背を背け、社会の一員である事を拒んだらそれは社会的死になるのでしょうか?戸籍上生きている扱いであれば社会死はしていない。でも、どこにも属さないことは社会からは死を宣告されたようなものです。登校拒否児童、社会に不適応な若者、出社拒否社員、引きこもり、それらは準社会死かもしれません。でも、それが悪いわけではないと思います。
学校や会社に嫌気がさす、結果としてそれらの社会に参加することを良しとしなくなる。だからといって、その人が病んでいるかというとそうではない。むしろ、病んでいる部分を持っているのは学校であったり、会社であったり、社会であったりします。それらの嫌な面を見てしまえば、真っ当な感覚では付き合いきれなくなることもあるでしょう。社会死とは言わないまでも、社会を否定している健全な人々はいます。
過去を完全に切り離して行きている人も、ある意味で社会死しているのかも知れません。少なくともこれまで属していた社会からは、死んだも同然と見なされるでしょう。でも、その社会の中で「心が病んで死んでしまった」と思われた時、積極的に社会死することで、属する社会を変えることができます。いつまでも、既存の社会にしがみついて、心を病んでしまうより良いのではないでしょうか。新たな社会で心を生き返らせ、新社会人として生き返ることも可能なはずです。
ある人はこれまで属していた社会から離れることで、より活性化しています。不登校が悪いというのは一つの考え方に過ぎません。与えられている学校教育が全てではありません。最初から弟子入りして職業教育を受けさせる道もあります。既存の社会から離脱しても、心理的、文化的、肉体的には全く死んでいないですし、生きる道は沢山あります。
社会が健康を損なうこともあります。その社会の中で生きる事をよしとしない場合、別の道を選ぶことも選択肢としてあると思います。心を生かすために。